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2011年2月26日 (土)

2011年、中東民主主義革命(2011年8月5日アップデート)

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→ 2011年、中東民主主義革命、(2010/12-2012/1)

2011年、中東民主主義革命(2011年8月5日アップデート)

今、中東が内側から変わってきている。イスラム教は、もともと他の宗教に寛容であったが、イスラム原理主義と対抗する中で、イスラム教への帰依を国民の義務にするようなことがないことを明確にするようになってきた。

そして、留学、出稼ぎ、インターネットを通じて基本的人権、国民主権、経済社会の公正を当然のこととする権利意識が成長してきたのだと言えよう。そうした成長した意識は、三〇年、四〇年という長期独裁政権に、閉塞感を感じていたのである。勿論そこでの「権利意識」はイスラム的に社会の権利として捉えられていると思われるが…。何れにせよ、その意味では、早晩予想された変化といえる。そして、今日の経済社会危機が国民にもたらした高い失業率(各国9~14%)、暮らしの貧困、特に最近顕著になってきた投機資金参入による食糧品価格の急騰が、きっかけとなり、国民が革命に脚を踏み出したのである。

ここにインフレと投機の話が出てきた。このテーマは、一般に景気刺激政策からの出口戦略の判断時期の問題として議論されがちであるが、景気刺激策として初期に投下される資金についても言える話なのである。生産への投資に誘導したいとして供給したマネーが過剰流動性となり、不動産やエネルギー、食糧などへの投機資金となる。中東民主主義革命は、今回の危機の深さを測れないでいる資本と政治の姿を映し出しているものでもある。

しかし、中東民主主義革命への道は平坦ではない。一国レベルの民主的政党を形成するためには時間がかかる。部族主義や宗派対立が持ち込まれるリスクもある。宗派対立はしばしば国境を超えた干渉となる。エネルギー問題が絡む地だけに、欧米の干渉も大きい。「中東現代史を振り返り、中東問題を考える(3/5)」でも明らかにしたが、多くの要因による外部からの干渉こそ、中東の民主化を遅らせてきたものなのである。

5月1日にオサマ・ビン・ラディンがパキスタンで殺された。イスラム主義の象徴のようにされたこともあったビン・ラディンだが、今回の中東民主主義革命を比較すると、その保守性、特殊性が明らかである。

今回は、中東諸国16カ国の運動の現状を国別にまとめてみた。今後もできるだけアップ・デートしてゆきたい。各国の失業率は、ニューヨーク・タイムズからの引用である。掲載順序はあいうえお順としてある。チュニジア、エジプトから始まった革命は、今、焦点をリビア・シリア・イエメンに移している。バーレーンの動きは一旦収束に回ったように見える。8月に入って、シリアでの衝突は規模を大きくしている。4月27日ニューヨーク・タイムズは、「攻撃にさらされたアラブのリーダー達は、やめるよりも闘うほうが良いと決意した」で、今後は、チュニジアやエジプトのように逃げたり、辞任したりするよりは最後まで弾圧する方を選ぶだろうとしている。彼等の学んだものは、次の三つである。①限られた譲歩、②外国やアルカイダ等の第三者に対する批判、③いかなる手段をとっても、通りから人々を追い払うことのできる治安部隊である。中東民主主義革命への道は一層険しいものになろうとしている。

そんな膠着状態の中で、モロッコが、国王の提案により首相権限を強めるための国民投票を7/01に実施し93%の賛成票を得て成立した。国民の動きもさほど大きくなかった国で、国王が先手を打ったと言えそうだが、血なまぐさい一歩でなく、妥協の一歩であったことは歓迎したい。

《アルジェリア》
従来の支配者: ブーテリカ大統領(1999年~)
首都: アルジェリア
失業率: 10%
現状: 世俗主義を掲げた軍隊が宗教政党政府には干渉。現大統領は、1999年から、5年任期の大統領選挙に3回当選。今期任期は2014年。1月から2月にかけて各地で少規模デモ起こる。政府は、市民的自由の拡大、市民的自由の拡大、食糧価格引き下げと雇用創出を約束。地域情勢を勘案して政府が妥協案を提出してきたにも拘わらず、2月12日の動員では警察に敗れてしまった。

《イエメン》
従来の支配者: アブドゥーラ・サーレハ大統領(1990~)
首都: サヌア
失業率: 10.14%
現状: サヌア他各地で抗議行動17日には反政府派と新政府派との衝突で12人が死亡。22日の衝突でも2人死亡。23日、7人の与党議員が辞職。サーレハ大統領は、2013年の辞任と、選挙法改正を表明するも、野党は即時辞任を求め対話仁応じていない。3月1日、サヌアの数千人のデモを前に、ビン・ラディンの師であったジンダーニ師が反米演説を行い、従来の世俗的運動がイスラム的なものに変化することが懸念されている。2日、野党連合がサーレハ大統領に年内辞任を含む政権移行プランを手交。8日、サヌア大学の学生抗議行動に対して治安部隊が発砲、1人の死者と数名の重傷者を出した。1990年南北イエメンが合併して成立、1994年5月~7月にかけてイエメン内戦を経て今日に至る。統一国家の歴史浅く、民間に武器が普及していることもあり、混乱の長期化大規模化の恐れあり。14日、不安定化を強めている、サーレハ大統領の退陣を要求する反政府運動を抑制するために4人の外国人記者を追放。17日、サーレハ大統領辞任を求めるサヌアでのデモに治安警察が発泡、14人が負傷。18日、サヌアで今までで最大規模のデモが行われ、治安部隊と政府支持者から武力攻撃を受けた。3月26日、イエメンの大統領権限の移動が行われているといわれているが、サーレハ統領は早い時期の辞職を否定した。29日、放棄されていた工場が爆発、少なくとも110人が死亡。4月2日、野党は、サレハ大統領から副大統領に権力を移行させると同時に挙国一致内閣と選挙を準備するプランを下書きした。3日、ペルシャ湾岸協力会議はイエメンの両勢力に対話に復帰するよう要請。一方、タイーツでは3ー5の3日間にわたり治安部隊と武装した政府支持派が、反政府勢力デモと衝突、10人以上が死亡。4日、米国大統領報道官は、アルカイダの勢力伸長を懸念、サレハ大統領に権限委譲プロセスを開始するよう求めた。8日、10万人を越える反政府デモが組織された。14日、サヌア近郊で軍閥間の衝突があった。15日、10万人以上の抗議者が今週もサヌアにもどってきた。反サーレハと親サーレはの対立する中、両勢力の衝突もなく平和裏に終わった。19日、政治危機収束に向け狭義が進む中、タイーツで抗議勢力と警察が衝突、一人が死亡。21日、ペルシャ湾岸協力会議はサーレハ大統領に収集案を提示した。副大統領への即時権限委譲、30日以内の辞任、60日後の新大統領選挙選挙、更に欧米は、サーレハ大統領、家族、有力部下の法的責任の免罪となっていた。23日、サーレハ大統領、条件付きで受諾。24日、野党も受諾。ただしデモ等への参加者は、サーレハ大統領の約束を信じず。25日、サーレハ大統領と野党との間の交渉はサウジアラビアの、リャドで行われることになった。26日、チュニジア、エジプトでは、支配者の選択肢は「退任か、逃走か」であったが、今日の選択肢は、「弾圧と、少しの譲歩と、外部からの介入の避難」である。サーレハ大統領も、弾圧することで免責交渉ができている。27日、合意書への署名は延期。大統領は、時間稼ぎをしているのではないかと、野党が不信感。決裂時には、大規模な軍事戦も。5/29、イスラム武装勢力が、南イエメン第2の都市の支配を強化。5/31、サヌアでの停戦は破綻。6/3、サレハ大統領、反政府勢力から軽傷を負う。アラブの最貧国イエメンは、政治危機によって経済的に一層破綻を深めている。6/4、サーレハ大統領、治療のためサウジアラビアに移動。6/29、アルカイダと結びつきのあるイスラム武装勢力が南部港湾都市ジンジバールの治安部隊と戦って、5人の市民を含む47人の犠牲者を出した。7/07、サレハ大統領がTVに登場、。サウジで撮影されたもので、話すのに少し不自由さを感じさせた。7/17、イエメンでは反政府勢力でも、抗議デモを再活性化するのは大変である。


《イラク》
従来の支配者: マリキ首相(2006~)有志連合(2003~)
首都: バグダッド
現状: イラクはまだ敗戦後の有志連合に守られた政治の中にある。マリキ政権は2005年12月の総選挙の結果成立したが、2010年3月の選挙では第2党に転落。しかし、政権の移譲に応じず、新政権が成立しない中で、宗派間対立が拡大してきている。2月25日にはバグダッド5千人、バスラ3千人等各地で大規模なデモが取り組まれ、10人近くの死者を出した。政治の混乱、腐敗、生活インフラ整備の遅れ、失業問題などへの不満が訴えられた。17日、カルバラでバーレーンのシーア派を支持する集会が開かれた。議会はバーレーンのシーア派に5百万ドルの支援金を贈ることを検討している。同時に、アラブ連盟、国連に介入を要請している。18日、バーレーンのシーア派を支持する訳2千人のデモがバグダッドのサドルシティーで、4千人規模のものがバスラで行われた。軍を派遣したサウジアラビアを、米国とイスラエルの奴隷と非難している。4月4日、クルド人地域で反政府抗議活動を呼びかけていたイスラム聖職者2人が逮捕された。20日、アラブ連盟はバグダッドでの年次総会を延期すると発表した。これは2回目の延期。

《イラン》
従来の支配者: アルマディネジャド大統領(2005~)
首都: テヘラン
失業率: 14.5%
現状: 14日、テヘランでの野党集会で学生が射殺。16日にはその学生の葬儀と警官隊が衝突。20日にも各地で反政府デモ。反政府有力政治家等の失踪事件なども起こっている。今回の政変でシーア派が力を増すケースが多く、イランの中東における影響力が高まると言われている。

《エジプト》
従来の支配者: ムバラク大統領(1981年~)
首都: カイロ
失業率: 8.9%
現状: 1月25日、一回目のデモと集会が開かれる。その日から18日間デモを続け、2月11日、ムバラクが、大統領を辞任し、エジプト軍最高評議会が怪訝を6ヶ月間継承することになった。イスラエル、米国との関係は現状を維持する。また、ムバラクの不正蓄財を暴き回収する為に資産凍結を手配。3月2日、反政府デモ指導部の要求に応えて軍最高評議会はシャフィーク首相の辞任とシャラフ新首相の就任を発表。反政府でもはこれを歓迎しているが、政局はまだ落ち着きを見せない。9日、シャラフ首相の下、第1回の閣議が開催された。19日に憲法改正についての国民投票を予定している。民主的勢力は同改正案では不十分であるとして、「反対」するよう要請。結果は77.2%が賛成、22.8%が反対。ムスリム同胞団のような既存の野党の強さと、新興リベラル派の弱さを確認するものとなった。28日、軍最高評議会は、人民議会選挙を9月に実施し、同選挙前に非常事態令を解除すると発表した。30日、新大統領を選出する選挙を11月までには終わらせると発表した。4月1日、移行政権は国営テレビ・ラジオの3人のトップを解雇した。民主勢力の要望に応えたもの。3人は前政権とは結びつきがない。3日、エジプト政府はムバラク前大統領が、治療のためにドイツに向かったというアルジャジーラの報道を否定し、ムバラク氏はエジプトからの出国を許されていないとした。9日未明、ターヒリール広場のデモ隊の勢力を治安部隊が襲い、2人の死者と数十人の負傷者を出した。ムバラク追放以降最も暴力的な弾圧が行われた。11日、ムバラク前大統領がテープ録音を利用して発言。横領を否定。同日、軍を批判したブロガーに3年の禁固刑判決。13日、ムバラク前大統領と二人の息子が聴取のため15日間拘束されたと発表。16日、最高行政裁判所は、かつての政権党であった国家民主主義党の解散と資産の政府による拘束を判決。23日、エジプト南部ケーナの知事にコプト教徒の知事が任命されたことにイスラム主義強硬派が千人単位のデモ。29日、エジプトは外交政策を新しい方向に舵をとった。ガザ地区との閉鎖された国境を開き、イスラエルと、ハマス及びイランとの関係正常化を図ろうとするもの。5/17、ムバラク夫人400万ドルの罰金で合意。保釈なしの勾留を受けていた。5/24、ムバラク前大統領に対し、最高検察官から、「非武装の抗議者を殺害した罪で起訴された。5/25、エジプトは5/28以降、ガザ地区との国境を期限を定めずオープンにすると発表した。6/29夜の衝突は、政府と反政府抗議者との間だけでなく、急速な変革をもとめる者と過去の革命に疑念を持つ者に分かれていることを示した。7/05、旧政府の3人の大臣が無罪となった。7/23、ムバラク前大統領の裁判は8月初めに開始される。6/29、イスラム教を厳しく政治や、法に徹底することを求めるデモが、1万人規模で行われた。

《オマーン》
従来の支配者: カブース・ビン・サイド国王(1970年~)
首都: マスカット
失業率: 
現状: 英国の保護国であったマスカット・オマーンの父王を追放し、1970年クーデタにより、皇太子だった現国王が政権を奪取し、1971年英国より独立、国名をオマーンに変更した。政体は絶対君主制。1991年、立法権のない諮問議会設置、1997年、立法権のない国家評議会設置。国民の3/4が、スンナ派に近いイバード派。石油他資源に恵まれ、絶対王政ながら国政は安定しているといわれる。今回の一連の民主化の波もオマーンにはすぐには現れなかった。しかし、2月28日、工業都市ソハールで1000人規模のデモが発生、政治改革や賃上げを訴えた。警官隊との衝突で6人が死亡。政府は5万人分の政府関連雇用創出と求職者への月390ドルの失業手当を支給する方針を発表。3月1日数千のデモが首都で行われた。経済的要求、表現の自由の要求を行うと同時に現国王の継続を支持し、他地域の運動と異なるところを示した。4月3日、オマーン当局は拘束されていた57人のデモ参加者を釈放した。

《クウェート》
従来の支配者: サバーハ・アハマド・ジャービル・サバーハ首長 
首都: クウェート
失業率: 1.6%
現状: 政体としては立憲君主制であるが、首相以下要職をサバーハ家が占める、サバーハ一族による絶対君主制である。典型的な石油収入・金利収入依存国家で、国民は殆どが公務員で、外国人労働者の雇用が盛ん。東部ジャハラで2月18日、無国籍の遊牧民系住民1000人以上が選挙権の付与などを求めるデモを起こした。3月9日、千人を越えるデモが中央公園に入ろうとしたが、警察に阻止された。

《サウジアラビア》
従来の支配者: アブドゥラー・ビン・アブドゥルアズィーズ国王(1996年~)
首都: リャド
失業率: 10.8%
現状: 1932年、アブドゥルアズィーズによって建国されて以来サウード家による絶対王政が続いている。要職は王族が独占。王位継承をめぐる混乱もしばしばあった。現国王は2005年、ファハド国王の死去により、異母弟が継承したものである。宗教的には、厳格なイスラム主義で知られるワッハーブ派に属し、それを国教としている。サウジでも、2月17日以来、シーア派住民による住民釈放を求める抗議集会などが活発になっている。3月8日、当局は先週逮捕したデモ参加者を釈放し始めた。8日に釈放を求める抗議団とアブドゥラー国王との会談が持たれていた。14日、湾岸協議会の加盟国軍がサウジアラビアからバーレーンに進駐した。オバマ大統領の自粛要請を無視したもの。サウジアラビアは米国がエジプトのムバラクを見限ったことへの不満をあきらかにしていた。米国との関係は冷ややかなものとなっている。18日、国営テレビ放送を通じて、国王が数十億ドルに及ぶ改革を宣言した。最低賃金の引き上げ、公務員への加給金の支払い、大学生への年金支払いの加算が含まれている。また、60千人の治安部隊の追加雇用も含んでいる。

《ジブチ》
従来の支配者: ゲレ大統領(1999年~)
首都: ジブチ
失業率: 59%
現状: 1977年フランスより独立。グレドが1999年まで大統領を4期22年続け、その後を現職のゲレが継承2期12年となる。憲法では大統領の3選は禁止されていたが、2010年、3選を認めるよう憲法を改正。この間、1991年ー2001年部族対立から内戦を経験。今回は1月18日に最初のデモが数千人で行われ、「ゲレ大統領の3選反対」を訴えた。死者2名を出したが、多くの拘束者を出し、外面は平静を回復しつつある。尚、「海賊」対策の名のもとに、ジブチ港は海上自衛隊護衛艦、ジブチ空港はP3C哨戒機及び輸送機の基地となっている。事態の進展によっては、派遣部隊の対応も問われてくる。

《シリア》
従来の支配者: バッシャール・アル=アサド大統領(2000年~)
首都: ダマスカス
失業率: 10-14%
現状: 1918年、トルコから独立するも、1920年フランスの委任統治国となる。1946年フランスより独立、更に1958年エジプトとアラブ連合共和国せつりつ。1961年連合を解消し、シリア・アラブ共和国として再独立。1963年、バアス党政権樹立。1967年、第三次中東戦争でゴラン高原を失い、穏健派のハーフィズ・アサドがクーデターの後に大統領選出。2000年、ハーフィズ・アサド死去により息子のバッシャールが大統領就任。1976年~2005年、レバノン駐留、2,007年バッシャール・アサド66%の得票で再選、現在2期目。
 イラク戦争で米国の圧倒的な軍事力を脅威と認識し、国内での引き締めを強めている。エジプトムバラク失脚後小規模なでも、集会が行われたがすぐに逮捕されたか追い散らされた。しかし、南部のダラーアでは、12名以上の、学生の逮捕に反対し3月から抗議が始まった。その後連日数千人が街頭に出るようになっている。30日、バッシャール・アサド大統領は内閣を総辞職させた。これは新たな譲歩の予兆であろう。30日にスピーチを予定。30日、大統領は国民への演説に於いて、昨今の混乱を外国からの陰謀によるものであると非難し、大方の人が期待していた、自身による独裁的政治支配については触れなかった。改革を求めてきた抗議団を落胆させるものとなった。《自由を求めるシリアの若者フェイスブック》は、6-8日にかけての街頭行動を呼びかけている。8日、各地で反政府でもが展開された。デモが4週目に入っている南部ダラアでは数千人のデモ隊に治安部隊が発砲、デモ参加者25人、警官19人が死亡。15日、抗議は各地に拡がり、数十人の死者を出した。16日、アサド大統領は48年に及ぶ非常事態令を数日中に解除するとTV放送。19日、更に衝突が続く中、政府はデモの中止を求め、同時に非常事態の解除を宣言した。22日、ダマスカスでの衝突では少なくても43人が死亡。しかし、抗議の力は、政府を倒す勢いまではないようだ。25日、シリア軍は、反抗的な南部の町ダラーアに戦車と軍隊を派遣した。首都近くの反抗的な都市ホムでは、活動家が行方不明となっている。27日、この間の弾圧に抗議して、「怒りの金曜日」と称する抗議行動がいくつかの都市で千人単位で組織するも、弾圧を受けた。但し、犠牲者は少ない模様。30日、ダラーアの反抗拠点とされるモスクを占拠。2カ月強の間に900人の死者を出すに至って、米国は5/18、欧州は5/23から本格的経済制裁に入った。5月30日、拷問後体を切断された13歳の少年のビデオが新たな怒りを起こさせている。5月31日、バッシャール・アサド大統領は大赦を発表した。対象にはこの間の抗議活動参加者も含まれる。6月3日、ほとんどのインターネットが遮断されている中でも、反政府抗議活動は街に溢れた。ハマでは少なくとも40人が犠牲となった。シリアによる弾圧は国際的に非難されたので、、英国で境域を受けたアサド大統領は父親と違って穏健に対応するのではないかとの期待もあった。しかし、大統領による干渉はなく、抗議勢力への支援は世界の数多くの抗争の中心であって、世界で最も不安定な地域をもたらすものと恐れられた。人権団体によると、6月半ばまでに、1400人が殺され、1万人以上の人々が拘束されたり行方不明になっている。観光産業の衰退で、シリアの国民経済は崩壊寸前の状態にある。6/21、1万人のデモ隊を組み、大赦を提案しているが、自陣営強化の意図が鮮明。6/23、トルコとの国境地帯へ来たところを軍隊が攻撃、何百人もの避難民をトルコに追いやっている。6/27、ダマスカスで初めて公式に記録された数十名の政府禁止区域での反政府行動が行われた。6/29、いくつかの大都市から軍、及び治安部隊が後退しており、事態収拾への動きなのか、単なる休養のためのものか不明。今まで最大の、1万人規模の反政府でもが、シリアの中央部にあるハマ地区で始まった。6月の終わりに政府勢力が引き上げた地域。見ている限りでは新しい段階に来ているようでもあるが、エジプトやチュニジアの時の勢いには及ばない。7月に入ると、オバマ政権は数週間をかけての政策変更があった。アサド政権には反対してゆくが、退陣までは求めないというものである。不穏な街ハマでの弾圧は爆弾、戦車、移動法、狙撃を含むものであった。死者は1700人以上、被拘束者、行方不明者は1万人以上に及ぶと言われている。

《スーダン》
従来の支配者: オマル・ハッサン・アル=バシール大統領(1989年~)
首都: ハルツーム
現状: 現大統領は、無血クーデターで政権に着き、政権を維持。ダルフール戦争での戦犯容疑で国際刑事裁判所から逮捕状が出されている。スーダンでも1月中旬から2月初めまで小規模なデモが続いたが、政府が野党活動家を逮捕し押さえ込んだ。4年後の大統領選挙には立候補しないと、この2月に政府報道官を通じて発表。

《チュニジア》
従来の支配者: ベン・アリ大統領(1987年~)
首都: チュニス
失業率: 13%
現状: 2010年12月17日、警察の不当な対応に抗議して失業中の青年が焼身自殺したことをきっかけに全国で抗議行動が続き、1月14日に同大統領は海外逃亡し、暫定政権ができた。ジャスミン革命と呼ばれ、今回の革命のきっかけとなった。しかし、政治改革についての政府諮問委員会委員長は、今は革命後の過渡期にあり、無政府状態に陥っていくリスクがあると警告している。2/27、シャヌーチ暫定内閣首相辞任。3月2日メバザ暫定大統領は、憲法制定会議の議員選挙を7月24日に予定していると発表した。7日、新閣僚が発表され、内務相から治安警察を廃止していると発表された。17日、クリントン米国務長官がチュニジアを訪問し、経済政治改革を要請した。4月19日、革命のきっかけとなった自殺した青年をひっぱたいた女性警察官に対する訴訟が却下となった。青年の母親が訴えを取り下げたもの。7/16、チュニジアのあたらしい民主主義は、自由主義と急進主義をもたらす。7/15、警察は民主化要求のデモに対して催涙ガスを使用した。

《バーレーン》
従来の支配者: ハマド・ビン・イーサー・アール・ハリーファ国王(1999~)
首都: バーレーン
失業率: 5.9%
現状: 現国王が首長だった頃から、同首長の主導で民主化を進め、2002年に、絶対君主制から立憲君主制に移行した。少数のスンナ派が、多数派のシーア派を支配しており、宗教的力関係が変わりうる国の一つ。2月14日に第一回のデモ。2月21日の数万人のシーア派によるデモを受けて、23日、308人の政治犯を開放した。3月1日数千の反政府デモが議会と放送局を囲んだ。国王は反政府勢力との接触を模索中。4日、十万人が街頭に出たバーレーンでは、チュニジア、エジプト的事態の推移が見られるが、米国の姿勢がバーレーン王家を支持しており、反政府勢力に取って不安の種となっている。8日マナマで、数千のシーア派による抗議行動が行われ、帰化したスンニ派国民の市民権の剥奪と国外追放を要求。シーア派の強硬派は共和国化を要求。14日、サウジアラビア軍(アラブ首長国連邦などを含めて、1,500人)の進駐に抗議して、民主化勢力は国連の安保理開催を要求。16日、軍の導入により反政府勢力のテント村を排除したのに続き、17日、6人の反政府勢力の指導者を逮捕した。18日、クウェートの医療チームがバーレーンに入り、反政府勢力をはげました。隣国のサウジアラビアが、政府支持の立場から軍事介入したのと対称的な動き。王国最大の野党がクエート首長の仲裁を受け入れることになった。この動きは、ウェファックグループは、「街から軍隊が撤退し、政治犯が釈放されなければ、交渉しない」というスタンスから南下したことを示唆している。戒厳令も暫時短縮され、当初の12時間から首都の一部地域に限り、5時間実施されているに過ぎない。議会は11名のシーア派議員の辞職を承認。同様に辞表を提出した7名の辞職承認は延期させられた。4月2日、マナマの病院で反政府の立場を取っていた医師を逮捕した。7日、テレビ演説で、皇太子が「改革を約束するが、社会を分断しようとする者には慈悲の余地はない」と発言。13日、人権擁護団体の発表によると、医師へのテロ行為は、反政府勢力のけが人の治療を脅かすものだ。22日バーレーンで行方不明となっている医師は30人以上に昇っている。28日、先月の抗議行動の中で、2人の警察官を殺した廉で、4人のシーア派抗議運動家に死刑判決。6/29、現在バーレーンに駐留しているサウジ軍の過半数が7/04に撤退すると発表した。一部は駐留を続ける。7/18、バーレーンで最大のシーア派政党は7/03以降、同国のスンニ派支配者との話し合いから離脱する。

《モロッコ》
従来の支配者: ムハンマド6世(1999~)
首都: ラバト
失業率: 9.6%
現状: 現王は、父王の逝去に伴い皇太子より王となった。政体は君主の権限の強い立憲君主制。2月20日全国で14万人が参加したデモが行われ5人の死者を出したが、国王は21日、要求を拒否。7/1、首相の権限を一部強化するための国民投票が国王の提案で実施された。結果は93%の賛成投票だった。

《ヨルダン》
従来の支配者: アブドゥラー王Ⅱ世(1999~)
首都: アンマン
失業率: 11.9%
現状: ハーシム家が世襲統治する立憲君主制国家。国民の半数あまりはパレスチナ難民。パレスチナ難民を抱える一方、王室の近代化に反対する保守派の台頭もあり、政治的不安定要因となっている。2月25日、6千~1万人のデモが平和的に行われ、政治改革が求められた。3月4日、ムスリム同胞団の組織した数千のデモは王権の制限を要求した。3月26日、民主化デモを治安警察が襲い、死者1名、負傷者10名強を出した。約200人の親政府系デモが、民主化デモを襲い、追われた民主化デモが治安警察にぶつかっていったもの。木曜日からの1000人規模のテントもバラバラにされた。4月8日、首相府前で1人の男性が、焼身自殺を図り、重体。15日、イスラム強硬派が王政支持者と衝突。強硬派は王政の米国とのつながりを批判。70人が逮捕された。
7/2,反政府デモが各地で組織され、アブドゥラー王Ⅱ世は、内閣改造を承認した。


《リビア》
従来の支配者: カダフィ大佐(1969~)
首都: トリポり
失業率: 10-14%
現状: 暴動が首都に近づき、軍幹部の離反が重なるに連れて、カダフィ大佐を支持する勢力がトリポリ近辺のいくつかの都市で反撃を開始。カダフィ政権は傭兵を投入していると言われているが、傭兵の場合、国民に対する攻撃にためらいがなく犠牲者が膨らむ可能性が高い。また、離反した軍部が介入してくると本格的な内戦状態になることも考えられる。2月25日、米国は、一方的制裁措置を発令。十億ドル単位のリビヤ政府資産及びカダフィ一族他高官の個人資産を凍結するもの。3月1日、りビヤの反政府勢力の中では、国連で決議をする形で、米国にトリポリの軍事施設の空爆を要請するかどうかが議論となっている。9日、石油都市ラス・ラヌーフと、トリポリの西50Kmの都市ザーウィアで政権側が大規模な空爆と砲撃を加え、反政府勢力は後退している。国連安保理は飛行禁止空域の設定を目指す会議を準備中であるが、カダフィは、徹底抗戦の姿勢を示している。Ajdabiya、Zuwarahで14日、政府軍は、武器を放棄すれば特赦を与えるとして反政府軍に圧力を与えている。17日、政府軍のベンガジ攻撃準備の進行に対して、米国は国連に空爆の許可を求めようとしている。同日、国連安保理は15ヶ国中、10ヶ国の賛成、リビアに対する軍事力行使を容認する決議を可決。ドイツ、中国、インド、ブラジル、ソ連は棄権に回った。19日、米英仏軍は、トリポリのカダフィ軍軍事施設への空爆を開始した。カダフィ支持派の市民が人間の壁をつくっているという。27日、欧米軍は、トリポリ他、いくつかのカダフィ軍の牙城に対し9日目の空爆を行った。反政府勢力はカダフィの出身地スルトで決定的な闘いに備えている。NATOは、ブラッセルでの会議で、米国がリビアで行っている作戦任務を正式に引継ぐことに合意した。30日、連合軍の空爆に励まされ、反乱軍がリビアの沿岸の町を占領しても、少し経つと親カダフィ軍の攻勢が始まり、反政府軍は石油精製都市ラス.ビン=ラヌーフまで攻めこんできた。反乱軍は大混乱の中で退却した。一方、カダフィ政権のムーサ・クーサ外相が、ロンドンに移動し、外相の辞任を発表した。4月1日、リビアの反政府勢力、リビア国民評議会は国連と串との話し合いで、カダフィ政権との条件付き停戦を受け入れ。4日、米国は辞任・亡命した外相に対する金融封鎖を解除した。カダフィ政権首脳に離反の動きがひろがっているとの報道あり。9日、NATO軍は8日に反乱軍の軍用車隊を誤爆して4人が死亡したことを認めた。9日、カダフィ軍はアジュダビアの反乱軍を攻撃、反乱軍は押され気味。8-9日、リビア3位の大都市ミスラタを支配する反乱軍に対するカダフィ軍の攻勢が続き、ミスラタは孤立している。14-15日、NATO外相会議で、リビア攻撃をめぐり姿勢がわかれた。19日、英国が、20日、フランス、イタリアが、反政府軍への連絡将校派遣を準備中と発表。21日、オバマ大統領は無人爆撃機Droneの使用を許可。21日、反政府軍がチュニジア国境を抑えたことに伴い、22日、カダフィ軍は戦線の縮小を余儀なくされている。包囲されたミスラタの反政府軍も失地を回復中。23日、カダフィ軍、ミスラタの包囲作戦を中止し、撤退。但し、郊外からの砲撃は継続。25日、NATOは、カダフィ宅、、国営放送局を爆撃。少なからぬ「人間の壁」に犠牲者が出た模様。29日、カダフィ軍が、反政府軍との交戦中にチュニジア国境を越境。チュニジア政府は侵略行為として抗議。5月1日、この間、少なくとも530人が戦争関連のトラウマで死亡。紛争開始以来の犠牲者は双方合わせて三万人を越えるという。ここには病院で手当を受けずに死亡した者、同様な状態で家族に葬られた者は含まれていない。30日、早朝のテレビ放送で、カダフィ大佐は休戦交渉を提案。空爆で、最年少の息子、セイフ・アル・アラブがカダフィの三人の孫と共に空爆で死亡したことを明らかにした。5月27日、ロシアのメドベージェフ大統領、米オバマ大統領との協議後、カダフィ退任を早めるため、ロシアのリビアとのコンタクトを活用するよう発言。カダフィ寄りの姿勢を変更した。5月31日、アフリカ連合から中有界のために遣られてきた南アのズマ大統領に対して、カダフィ大佐は空爆や国際的圧力があってもリビアを離れることはないと言明。6月3日、米下院で、オバマ大統領が議会の承認なしにリビアへの攻撃を続けていることを非難する決議を268対145の大差で可決。ケリー、マケイン両議員が奔走し、オバマ大統領に1年間の軍事力行使権限を認めようとしたが、6/21、下院で否決された。6/27、国際刑事裁判所、カダフィ大佐、その息子、及び情報相に逮捕状発行。6/29、フランスは、リビア反政府軍への武器援助っを確認。7月15日、米国は他の30ヶ国と共に反政府組織を政府として外交的に承認、これによって、米銀に凍結されていたリビア政府資産の一部解除が可能となる。7/28、反政府軍司令官ユーネス将軍が秘密めいた状況の中で殺された。暴力的衝突の始まりは部族間紛争がカダフィ政権を倒すのに困難を抱えている反政府組織を分裂させるのではないかと懸念する向きもある。

以上、

森 史朗(和泉通信)2011/02/25(2011/07/03改訂)

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コメント

どういう基準で国を選ばれたのか分かりかねますが、日本にとって非常に重要な国が抜けているように思います。
日本の唯一の在外自衛隊基地があるジブチです。周辺国と同様に、事実上の一党独裁体制であり、1999年に大統領職に就いたゲレは、大統領職任期延長のための憲法改正を昨年行いました。今年1月末から民主化を求めるデモが頻発し、活動家の一部は拘留されているようです。IMFによると失業率は60パーセントです。
http://www.imf.org/external/pubs/ft/survey/so/2011/CAR020211A.htm

投稿: やなぎ | 2011年2月27日 (日) 08時03分

やなぎさん、

ご指摘ありがとうございました。採り上げ基準は今でも明確にできるわけではないのですが、ジブチとイラク、クウェートを追加しました。サウジアラビア、アラブ首長国連邦についても運動は眼に見えてきませんがフォローしてゆかなければならないでしょう。問題がないのではなく、表面化していないだけなのでしょうから。

投稿: 森 史朗 | 2011年2月27日 (日) 17時10分

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