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2010年1月17日 (日)

石川文洋氏、中村梧郎氏インタビュー…報道カメラマンが語る戦争と平和

  私が報道カメラマンとして有名な石川文洋さんと中村梧郎さんとの知遇を得たのは2004年6月1日、長野県の諏訪清陵高校同窓会の東京支部である「東京清陵会」会報に母校にご縁のあるお二人の対談を企画し、司会をするという機会を得たからです。3時間にわたる対談を限られた原稿枠の中に纏めるのはやむを得ないこととは言え、大切な発言が並ぶ中、つらい作業でした。

  対談後5年半が経過した今、お二人は対談でお話になった課題に着実に取り組まれ、ジャーナリストとして活躍されています。そして、当時、対談で語られたことは、今日一層意味深いものとなっています。そこで、お二人のご了解と東京清陵会のご理解をいただいて「東京清陵会だより第15号」に掲載されたお二人の対談を転載させていただくことになりました。関係者の皆様に改めて謝意を表し、さっそく以下に掲載させていただきます。尚、掲載文章は無断転載不可とさせていただきます。

  また、同窓会報という性格もあり、冒頭の部分にローカルな話題が出てまいります。諏訪という地での戦後の一風景を見ていただければと思います。

森 史朗 2010/01/17 和泉通信
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「報道カメラマンが見てきたもの、
     そして今見つめているもの」
 ・・・石川文洋氏(沖縄出身、現在諏訪在住)、
    中村梧郎氏(諏訪清陵高校六二回生)に聞く・・・

《 目次 》
・お二人と清陵のご縁
・戦争の記憶の風化
・戦争の現実
・戦場からしか平和は見えないか
・子供たち
・ベトナム戦争から見えるもの
・日本という国
・自身の生としてのカメラマン人生・・・柳沢武司氏(61回)との出会いとその死
・今をどう生きていくか
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お二人と清陵とのご縁

〈司会〉 石川さん、中村さん、今日は報道カメラマンとして世界的に知られるお二人のお話しをお聞かせ頂ける機会を頂き感謝しております。
中村さんの清陵時代から伺います。
〈中村〉 原則男子校の時代で、女子は学年に数人しかおらず、互いに牽制しながら大事にしたという時代でした。質実剛健の伝統が残っていて弊衣破帽の気風と共に、独立独歩、自由な発想を重んずるということがありました。当時、学友会は「原子雲」という会誌を発行し原水爆禁止を求める生徒の論文を特集しました。飲酒喫煙もコンパ室他でかなりやっていましたね。
〈司会〉 沖縄ご出身の石川さんが、諏訪に移られて十年とのことですが。
〈石川〉 沖縄から出てきて以来ずっと千葉県に住んでいました。朝日新聞退社を契機に沖縄に帰ることを考え、本部半島の備瀬に土地を得ることができました。しかし、仕事のことも考え当面は東京に近いところに住むことにしました。海は将来沖縄の本部に帰ればあるから山の近くに住みたい。山といえば、高校二年の時、生まれて初めて登った山が霧ヶ峰でした。強清水から車山を経て白樺湖に下ったのですが、あの時は感動しました。今の住まいは、家を探しに行った八ヶ岳からの帰りに読んだ情報誌に載っていたもので、寄ってみたらカラマツ林の黄葉がきれいで、しかもすぐ隣に温泉がある。これはいいと住むことになりました。
〈中村〉 あそこは二葉に通う学生が歩く道で、私たちの世代にとっては聖域。そこに住むからには清陵の企画にもおつき合い頂かなくては、ということで今回のお願いとなったわけです。
〈司会〉 諏訪は寒いですよね。
〈石川〉 一度、水洗トイレの水溜が凍って割れてしまい、驚きました。でも、そこになぜ住んでいるかというと、まずその四季がいいですね。香港に一年、ベトナムに四年住んで日本を見直したのは四季の美しさでした。沖縄にも四季はない。諏訪は半年は冬ですが、それだけに春が来るといいですね。結果的に諏訪を選んで良かったと思います。

戦争の記憶の風化

〈司会〉 本題に入ります。日本では戦争体験の風化が指摘されていますが。
〈石川〉 日本で一番問題なのは、日本の戦争がどういうものであったのか総括できていないことだと思います。政府としても考えをはっきり出していないし、とくに教育の中で日本の戦争がどうだったのかが教えられていない。そして、そうした教育を受けた子供たちが、教師になり、親になっていく。だから、小泉首相が靖国神社に行ったりしても、本人も自覚はないし、周辺の人がそれを見ても不自然に映らないということになる。私は、イラクへ自衛隊を送っているのは小泉首相ではなく、日本人全体だと思っています。世界第二位の軍事力を持つ自衛隊を育てたのはほかでもない日本人みんなです。自衛隊をここまで育ててしまえば当然イラクにも行くようになるわけです。憲法第九条ができたときには、戦争が終わったばかりだったので、それぞれ個人の気持ちの中で戦争の総括はできていた。しかし、来年で戦後六十年ですが、これだけ経つと個々の気持ちも薄くなり、亡くなっている方もおり、戦争の記憶は風化してきた。だから、今からでも日本の戦争がどういうものであったのかをきちっとすべきだと思います。
〈中村〉 今、戦争をやれる「普通の国」になるんだという発想自体がとてつもなくおかしい。そういう方向に細かいところで一つずつステップアップしていく動きに、どれだけ敏感になれるかが問われています。その点で大手メディアの論調を見ていると歯がゆい。

戦争の現実

〈司会〉 お二人は戦争の悲惨さをご覧になってきました。
〈中村〉 兵器は人をいかに効率よく残虐に殺すかを考えて作られたものです。そして戦争の度に新兵器の実験的使用が行われてきた。日本への原爆投下も一例。ベトナム戦争で使用された枯葉剤は食糧を絶ち、森林を枯らすことを目的とした化学兵器でしたが、途中で人体に有害なダイオキシンが含まれていることがわかった。ところがわかってからますます散布量を増やした。その結果、次の次の世代にまでも影響があるという事態になった。戦争というものに幻想を抱いてはいけない。正義の戦争などあり得ません。
〈司会〉 戦場で自分の理性を維持していくことはできるのでしょうか。
〈石川〉 戦争は殺人です。戦争の中で理性を保つのは不可能。戦場や監獄での非人道的行為が問題となっていますが、私自身も兵隊になれば殺人や虐待をすると思っています。人間の残酷な本性は相手を人間と思わなくなるところに出てきます。そこには憎悪を増長させる差別観がある。だからそういう状況に陥らないためにはどうするのか。私は防衛のためのものも含めて軍隊を持たないことだと思っています。そのためにも、戦争の総括と共に、戦争の残酷さを知ることが必要だと思います。

戦場からしか平和は見えないか

〈司会〉 戦場にいて初めて平和の尊さが見えてくるものなのでしょうか。
〈中村〉 戦争体験はなくとも平和の尊さ、戦争の愚かさは理解できる。他者の苦痛を感じとれる否かが問われることなのです。戦争は我々の倫理観や道徳観の対極にあります。今、我々には平和の中にいるという感覚がありますが、それはいつ壊れるかわからない。リストラや、自分の家族の平和さえ保てないという社会にいるわけなので、平和というものの理解はいろんな場で誰もができることだと思います。
〈石川〉 今度日本縦断をしてみて、日本は本当に平和だと思いました。豊かです。しかし、平和の意味をどれだけわかっているのかと感じました。アフガニスタンのカブールや農村は徹底的に破壊されました。他国の状況に関心を持つことにより日本の平和を知ることができる。そこにジャーナリストの役割があります。では、日本人は平和を守るための努力をしているかというと疑問です。日本縦断中に総選挙がありましたが、護憲政党は惨敗でした。やはり、人々は戦争の悲惨さにも、平和の尊さにも鈍感になってきています。

子供たち

〈司会〉 戦場の子供たちを見てきて、日本の子供たちをどうお思いですか。
〈石川〉 ベトナムの子供たちに感じたのはバイタリティーの強さでした。その原因は、恵まれた自然の中で遊んでいることと、旺盛な好奇心にあります。一方、日本を歩いていると、子供たちが周囲の動きに対し、しらけているというところがあると思いました。子供に好奇心がないようにも感じました。これは多くの情報をたれ流しにするテレビの影響が大きいと思います。外で遊んでいる子が少ないのも気になりました。
〈司会〉 中村さんはベトちゃん、ドクちゃんには深く関わられました。
〈中村〉 一九八一年に初めて出会った時には、この子たちは生き延びられまいと思いました。その後分離手術に成功します。一方、二人のことがテレビ等で報道されることに対し、このような子を生き延びさせ、報道に晒すことは非人道的だという批判がでました。生きることも見ることもならんというのでしょうか。その見解には優生思想やハンディを持った人への差別意識がある。分離手術後、ベトは寝たきりですがドクは学校にも行き、片足でサッカーもできる。昨年会ったときは、これからデートだと話していました。

ベトナム戦争から見えるもの

〈司会〉 ベトナム戦争でベトナム人は「グゥク(黄色人種を指す蔑称)」と呼ばれ、今は、アラブ人が「ハッジ」と呼ばれています。
〈中村〉 当時の海兵隊員の手記によると、入営の日に、上官が目の前でウサギの両足を持って引き裂き、「グゥクはこういう目にあわせなければならない」と教える。けだものなのだと。
〈司会〉 ベトナム戦争を身近に見てきた者として、今日のイラク戦争に見えてくるものは何でしょうか。
〈石川〉 戦争の残虐さという点ではどこの戦争でも同じです。しかも兵士達に悪いことをしているという意識がないのも同様です。泥沼化という点ではイラクの方が深刻だと思います。どちらも傀儡政権を利用した新植民地主義の戦争ですが、イラク統治評議会にしろ、暫定政権にしろ、ベトナム戦争当時の南ベトナム政府、北ベトナム政府に比べ政権基盤が弱い。アメリカにとって撤退の道を探すのは容易ではないと思います。
〈中村〉 米国メディアでは大量破壊兵器が発見されなかったことについて、誤った情報提供をしたとして自己批判の記事を書き始めている。日本でも、ブッシュがあると言うからあるんだという路線でメディアも権力もやってきたことへの、きちんとした総括が必要です。ベトナム戦争では自由に取材をさせたのが失敗だったとして、レーガン政権は軍隊への取材を規制(ディーバー・ルール)しました。それをいっそう強めたのが今度の自衛隊派遣取材ルール。サマーワの自衛隊を批判する記事はそこからは出てこない。亡くなった橋田さんのようなフリーのジャーナリストからしか出てきません。

日本という国

〈司会〉 石川さん、一九六四年に日本を出国した契機には当時の日本への絶望があったと書かれていますが。
〈石川〉 日本への絶望というよりも、外国を見たいという気持ちが強かった。豊かさのアメリカにあこがれて日本を出たが、途中のベトナムで醜いアメリカを見てしまったということになります。六〇年安保当時の日本社会への失望感というものもありました。
〈司会〉 ダイオキシン問題での日本の政府や企業のあり方はどうでしょう。
〈中村〉 ダイオキシン問題はベトナム戦争を通じて世界的に知られることになりました。一九七六年、イタリアのセベソでの化学工場爆発事故以来、欧州では徹底して規制の手がうたれてきた。日本ではセベソの事故を知りながら、ほぼ二〇年放置した。九〇年代末になってようやく規制が始まったが、ゴミ焼却方式に固執する日本のやり方では問題は解決しません。焼却炉内での発生は抑制できても、煙道などでの再合成・発生は防げず、バグフィルターで飛灰を漉し取ったとしても、ダイオキシンだらけの灰はダンプカーで運ばれ処分場に捨てられています。

自身の生としてのカメラマン人生……柳沢武司氏(六一回)との出会いと死 

〈司会〉 なぜ戦場に行くのか。そこには「生」の実感があったとおっしゃっていますが。
〈石川〉 ピッタリした言葉が見つからないのですが、それは好奇心ですね。訴えるとか、戦争を中止させるなどの正義感、使命感は、あまりありませんでした。今でもイラクに行きたいと思いますが、写真を撮るというよりは、イラクがどういう状況になっているか知りたいという気持ちが強いですね。
〈司会〉 カンボジアで亡くなられた柳沢武司さんは清陵で中村さんの一年先輩でいらっしゃいました。
〈中村〉 彼は、学友会の会長もやっていました。演説に説得力があり、信頼も厚かった。大学の受験に失敗した後、東映の撮影部にいて、私が東京に出たときは、世田谷にいた彼の四畳半に転がり込みました。六〇年安保の最中でしたが、彼から、働きつつ大学に行くのも良いぞと言われ、アジア通信社に入社、写真記者としてこの道に入りました。一九七〇年三月にロンノル政権ができた頃、諏訪で二人で呑み、彼が一足先にNDN特派員でカンボジアに入った。私は四月末にカイロで開かれたインドシナ人民支援国際会議の取材に行き、そこで記者証の発行を待っている間に「柳沢武司、カンボジアで行方不明」というUPI のテレックス第一報を偶然見た。取材中にポルポト派に捕まり殺されたのです。
〈司会〉 最近では報道の世界にまで「自己責任論」が言われてきています。
〈石川〉 危険だからフリーのジャーナリストが行くんですよ。危険がなければ新聞社がやる。戦争を防ぐためには、戦争の実態を知らなければいけない。その為には現場に行かなければならない。しかし組織にいたのでは規制があるので、フリーの人が行くことになってきている。事実を伝えていく上で、その仕事は大切です。事実を隠したい政府がフリーのジャーナリストを批判することは仕方ないとしても、マスコミがそれを批判してはいけません。その人達の仕事を評価していかないと、戦前のように戦争の実態が知らされなくなってしまいます。

今をどう生きていくか

〈司会〉 最後に、今を、或いはこれからをどう生きていくかということについて、一言お願い致します。
〈中村〉 自分の関心をさらに拡げながらより深めていけると、良き人生を全うできるのではないかと思います。実事求是。今を生きている自分の、関心と興味のままにやっていけば、結果として、十年、二十年経って「歴史に触れていた」というようなことも起きたりするのではないでしょうか。
〈司会〉 石川さんは、平和運動にも積極的に参加されています。
〈石川〉 ベトナム、カンボジア、ボスニア、ソマリア、アフガニスタンの戦争を見てきました。今、沖縄戦の取材もしています。こうしたことを次の世代に伝えて行くことは自分の義務だと、今は思っています。そして、経験を生かしながら、新しいものも見ていきたいと思っています。
〈司会〉 ありがとうございました。

(了)

(初出、「東京清陵会だより第15号」2004年9月13日)
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関連ブログ: 「命こそ宝」・・・石川文洋さんのお話をお聴きして(光が丘9条の会にて)
         中村梧郎氏が枯葉剤米国キャンペーンで成し遂げてきたこと
         報道カメラマン石川文洋公式ホームページ
         中村梧郎のウェブサイトへようこそ

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コメント

素晴らしいブログを読ませていただきありがとうございます。
これからも更新頑張ってください。

投稿: 上であいま下 | 2010年1月20日 (水) 16時26分

上であいま下さん

ブログをお読みいただきありがとうございました。加えて、励ましの言葉をいただくのは、やはり嬉しいものです。このブログのテーマは「政治経済の今を考える」、と堅いのですが、一度だけの人生を楽しく充実したものにしてゆきたいという当たり前の思いで書いています。これからも当ブログを訪ねてください。

投稿: 森 史朗 | 2010年2月11日 (木) 11時37分

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